信越化学工業の敏腕経営者。
信越化学工業は、汎用樹脂の塩化ビニールや半導体の原料であるシリコンウエハーで世界一のシェアを持つ。
大胆かつ慎重なリーダーである金川千尋氏の半生を追う!

経歴

金川千尋氏は1926年に韓国の大邱市に生まれました。
1946年に東京大学法学部に入学して、1950年に同大学同学部を卒業しています。
同年に現在の三井物産である極東物産に入社。
同社では人間関係を深めるために社内や社外を問わずに夜の付き合いに多くの時間を割きました。
そして36歳になった1962年に信越化学工業に転職して、1970年には同社の海外事業本部長、1976年に常務取締役、1978年に信越化学工業のアメリカ子会社のシンテックINC.の取締役社長、1979年に専務取締役、1983年に代表取締役副社長に就任しました。
そして64歳になった1990年に代表取締役に就任し、同社は目覚しい成長を遂げることになりました。
1995年から2007年までの12年間連続増益を達成。
特に、2005年から2007年までの3年間に関しては2桁成長を記録しています。
当時の日本の化学業界は世界に比べると「弱い」とされていて、グローバルに活躍できる会社は出てこないだろうといわれていました。
しかしながら、金川千尋氏のリーダーシップによって増益だけでなく海外の売上比率も伸ばして信越化学工業を世界と戦える起業に成長させました。
汎用樹脂の塩化ビニールや半導体の素材でだるシリコンウェハーで世界トップシェアを誇るようになりました。
その手腕が評価されてアメリカの化学業界誌にもたびたび取り上げられたり、インタビュー記事が掲載されました。
金川千尋氏がこのように辣腕を振るうようになったことの背景として、学生時代から優秀な人たちとの出会いがあったことだと本人が語っています。
そもそも父親が裁判官で、亡くなった後は勲四等瑞宝章を受賞する程優秀な人物でした。
親族には昭和天皇と満州皇帝との間で通訳を務める人もいました。
旧制六高時代には安倍晋太郎氏など後の経済界や法曹界で目覚しい活躍をする人たちがいました。
社会人になってからもアメリカやポーランドでもさまざまなビジネスパーソンと出会いました。
そうして優秀な人との出会いから対人関係の構築方法や、いかにすれば仕事の成果が出るようになるかを学習したことで、現在の金川千尋氏を形作ったというわけです。
2010年にはシンテックINC.の代表取締役会長に就任しました。
80歳を超えても平日は毎日7時に出社して、ビジネスパーソンとしてハードな毎日を過ごしています。

金川千尋氏の考え

金川千尋氏がビジネスマンとして大切にし続けたことの1つがクイックレスポンスです。
いかに早くお客からの問い合わせや要望にこたえるかが信頼関係を構築する要だとしています。
同氏が所属していた海外事業部では多くのファクシミリが毎日送られてきますが、そのすべてを当日中に返信することを心がけました。
そして、これは社外に対してだけでなく社内の人間に対しても同様で、書類決済のほとんどは30秒以内に済ませるというスピード決済です。
疑問を感じたら、とことん質問をするという姿勢も継続してきました。
これは個人的にとても共感できるものです。
私はコンサルの傍ら営業としても働いていますが、社内の人間と社外の人間はスピード対応をいかに求めているかを日々経験していますので、同氏の考えは納得できるものです。
レスポンスの速さは、無料で信頼を得られるノーリスクハイリターンなものです。

それから、同氏は本を読むことはしないという独自の考えを持っています。
その理由は時間がもったいないからというものです。
1冊の本を2時間も3時間もかけて読むくらいなら、その時間に会社がいかにすれば成長できるかをとことん考えたほうが良いアイデアが出るというのです。
これもとても同調できるもので、本はどうしても偏ってしまうので、現実と格闘することで具体的なアイデアが出るものだと私も思います。
本を読むのは無駄とは言いませんが、ただ読むだけではなくしっかりと目的意識をもって読むことが重要ですね。
